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【読んでみた】デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

以前こんなのを読んでいました。

nogawanogawa.hatenablog.com

nogawanogawa.hatenablog.com

やばいっすね。落合先生の本読みすぎっすね。(笑)
そんなわけで、今回はこちらを読んでみました。

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

以下、備忘録も兼ねてのメモです。

脱「近代」

産業革命以後の時代を「近代」と呼んだりします。 産業革命後、世界中で機械の使用によって生産を効率化し、世界は急速に成長を遂げてきました。 これらは、「社会全体を平均的に見て成長することを良しとする考え方」に基づいていました。

当時は受容過多による大量生産大量消費の時代だったこともあり、市場に商品を投下すれば売れていく時代でした。 工業製品は平均的な市民が使用することを想定して生産され、デザインや値段、その他あらゆる部分は社会のマジョリティをベースに生産されてきました。

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また、労働者は労働に必要な技能を規格化することで定義し、その能力をもとにマジョリティの技能水準を定義し、そこに合わせて労働者をはめ込んでいきました。 もちろん、教育はそういったマジョリティの技能水準を獲得することを目標に行われ、価値観の中心にはいつもマジョリティ・平均値が存在していました。

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ところが、現在では生産効率が劇的に向上したため供給が需要に追いついてしまったため、単純にマジョリティの水準を目標にした近代的なやり方では対応しきれなくなってしまいました。 消費者の生活形態や職業は非常に多様化し、マジョリティを念頭においたデザインではものは売れず、マジョリティとして定義された技能では業務をカバーしきれず、マジョリティを育てるための教育では実際の現場で必要な技能をカバーしきれなくなってしまいました。 このように、近代では「平均に基づいて全体を最適化する」という考え方でマジョリティ中心に社会を最適化してきましたが、それが崩れ去った現在も近代と同じ方法で社会は発展しようとしているため、成長は限界に直面します。

多様化した生活形態に適合する上で、この本では近代以前の社会である江戸時代がモデルケースになりうると言います。 ちょうど、江戸時代の幕藩体制のように地域コミュニティでの最適化を図ることに似ています。 当時は日本全体で見た平均に基づく最適化ではなく、職業や地域に応じた小さなコミュニティごとに産業や経済が形成されることで、局所最適化を複数構築していきます。 現在のダイバーシティの動きに対し、地域・職業・言語などの違いに対してマジョリティを考えるのではなく、それぞれに対して小さく分割し局所最適化をとっていく必要があるのです。 そのためには、生産プロセスは柔軟にデザインし、教育現場では劇場型ではなく個別指導型に、企業では機械・システムにロックインされることなく人間の課題解決能力をフル活用することが必要になります。

人間を「補完する存在」としてのコンピュータ

近代では、人間を均質なモジュールとして捉えることで、組織の作業効率を向上させてきました。 しかし、人間の最大の特徴である思考能力を削ぎ落とすことに繋がり、ミクロな観点で見ると生産的ではありません。

戦後、計算機の技術はソフトウェアやネットワークを巻き込んで急速に進歩し、それはインターネットや機械学習など大きな変化を社会にもたらしました。 こうして、世界中のコンピュータがネットワークを介して接続され、分散した一つの情報システムを構築してきました。 これにより、人間はコンピュータを使用して個人の記憶能力、演算能力や情報伝達力など、足りない機能を補完することが可能になりました。

情報を伝達するツールとして、人間は言語を開発しましたが、今日ではそのあり方も変わっています。 こうした計算機による環境的全体最適化をしていくことで、人間は視覚や聴覚といった「不完全なセンサー」を補完できるようになりました。 このような人間の周りに存在する計算機群を「場」として捉え、そうした人間と計算機が違和感なく接続する状態を「デジタルネイチャー」と呼ぶようです。

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インターネットやスマートフォンが普及したことで劇的に変わった点は、コミュニケーションでしょう。 人間のコミュニケーションはもともと不完全性をはらんでいます。 ある事象を他人に伝達するために、事象を言語に変換し、それを受信した人が事象のイメージとして変換し直しています。 つまり、1回の伝達の中で事象から言語、言語から事象というブラックボックス的変換が行われていることになります。 実際には、事象の内部には文脈や知識、更には外国語独特の文化的背景といったメタな情報が欠落した状態で言語に変換されるので、コミュニケーションの段階で情報は少なからず欠落します。

インターネットやスマートフォンの登場によって、コミュニケーションはかなり改善されました。 感情を表現するためにLINEのスタンプを送ったりできるようになりましたし、複雑な事象は画像や動画を使って伝達することだってできます。 今後はARやVRも介入して、伝えたいことを発信者の目線そのままで映像と音声として伝達することができるようになるはずです。 このように、従来の人間の持っていた不完全な機能を保管する場/環境として、無意識にコンピュータが介入しており、そこには意識していない自然な計算機が存在しているようになります。

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オープンソースによる価値の再分配

ITの業界では当たり前になったオープンソースという考え方があります。 作ったアプリケーションをネットワークに公開し、それによって現在の技術革新に貢献してきました。 オープンソースによって、多くのソフトウェアを利用可能になっています。

アプリケーションについて少し見方を変えると、アプリケーションを価値と捉える事ができるかもしれません。 形がないとはいえ、商品になりうるのでそれは価値を持っていると言っていいでしょう。 そして、今日ではオープンソース化することにより他社から見た限界費用は0に近しくなります。

これは言い換えると、生産したものがどんどん社会に投下され、独占することができないことを意味します。 つまり、オープンソースの文化には、社会全体に浸透するまでのスピードがメリットである一方、価値を保持し続けられないデメリットがあるということです。

この流れは、思想や文化を含めた社会システムの上に成り立っており、現在ではこの文化は富を組織内で保持し続ける従来の資本主義と共存しています。 そして、今後もしばらくはこのまま平行線をたどるでしょう。

感想

今回は内容がやたら難しかったです。 哲学・思想的な部分が多いので、なかなかついていけませんね。 「わかりそうでわからない」、そんな未来予想な気がします。 ただ戦後に経済成長を起こすために最適化されたあらゆる仕組みを見直さないといけないタイミングに差し掛かっていることは確かですね。

要するに、

  • 個性・地域・時代に応じた局所最適化
  • 人間 + テクノロジーで人間機能を拡張することで個別生産性の向上
  • オープンソースによる価値の再分配と資本主義的な内部留保の効果的な共存

をしましょうってことだと思ってます。

どのみち少子高齢化やら労働人口の減少やらに向き合わないといけないので、哲学的な部分も含めて社会の仕組みごとごっそり変わってくれるといいですね。